死に目に会えないスピリチュアルな理由
死に目に会えない… 死に目に会えなかった…
やむなくそうなる場合もありますし、死に目に会えなかったことを重く受け止めトラウマになるような人さえいます。
人はこの地上に生まれて来て、誰しもがいつかは死に至ります。
死に目に会える、死に目に会えない、いずれにしてもスピリチュアル的に言うならば理由があります。
ですがいずれの場合でもただ一つ変わらない事実があります。
それは魂が永遠不滅の存在であるということです。
【目次】
死に目に会うとは?
私のように人間の輪廻転生を受け入れ、魂の永続性を知る者にとっては、死は一時的な別れでしかありませんが、それでもやはり、遠くに引っ越す友人を別れの日に見送りたい気持ちはあります。
まずは死に目という言葉の一般的な定義を確認しましょう・
しに‐め【死に目】 の解説
死に際。臨終。「親の死に目にあえない」
類語
いまわ 死に際(しにぎわ) 往生際(おうじょうぎわ) 断末魔(だんまつま) 末期(まつご) 臨終(りんじゅう) 終焉(しゅうえん)
死に目(しにめ)の意味 – goo国語辞書
死に目という言葉のニュアンスは、死ぬ間際、死ぬ直前、死ぬ瞬間、といった感じだと思います。
人間がこの地上に生まれたら、いつかは死にます。
そして人間が死に至る可能性などいついかなる時も存在しますし、死にいたる形もさまざまです。
遠く離れて暮らしていた、どうしても抜けることの出来ない大切な用事があった、突然の事故で亡くなった、など、どのようにして死に至るかもさまざまなケースがあるので私たちは愛する人の死に目に会えないなんてことも普通にあることだと思います。
死に目に会う、死に目に会えない、スピリチュアルな理由
死に目に立ち会える場合、死に目に立ち会えない場合、スピリツアル的に言っても様さまざまなケースがあるので、一概には言えあせんがそれでもいくつかの傾向は存在します。
なぜ死に目に立ち会えたのか?なぜ死に目に立ち会えなかったのか?
まず死に目にあえるかどうかは、自分自身で制御できる性質のものではないと理解してください。死は突然に訪れる場合もあるので。
その上で死に目についてのスピリチュアルなお話をしたいと思います。
死は誰にでも訪れる
死は誰にでも訪れますし、自分がどのような最後を迎えるのか?なんで誰にも解りません。
死はスピリチュアル的に言うのであれば、「肉体を失う」という一時的な変化に過ぎません。人間の魂は永遠不滅の存在なので私たちの魂は通常、死後に霊界に滞在したのち、再びこの地上に生まれて来ます。人間の生まれ変わりは輪廻転生という言葉で知られています。
私たち人間の魂は生まれ変わりを繰り返し、前世もあれば来世もあるということです。
人間の霊は死後に肉体を離れるときに、本来の活動領域に存在する情報を思い出します。
これは人生という本を読むことに没頭していた霊魂が、本を読み終えて再び身の周りの現実を認識するようなことに似ています。あるいはこれまで現実だと思っていたようなリアルな長い長い夢から目覚め、本当の自分を認識したような状態とも言えるかも知れません。
たとえば愛し合っている恋人同士がいたとして、男性の方が亡くなり、女性の方が生きながらえたとします。
男性側は死後にこの世界の真実を思い出すのですから、憶測や思想ではなく事実として「魂の永続性」、そして再開の時を認識しますから、死に別れた悲しみから先に解放されるのは亡くなった側になります。
つまり、人の死とは残される側にこそ大きな影響があり、魂の成長のための課題があるのです。
この地上での生がすべてだと思っている人にとっては、死は永遠の別れということになります。
輪廻転生を信じ、受け入れることが出来ている人であれば死は一時的な別れに過ぎません。
それによっても、死の重みや死が持つ愛する人の死という出来事がもつメッセージは変わってきます。
死に目に会えるスピリチュアルな意味
人の死は残される側にこそ大きな影響があると申しあげましたが、死に目に会えるケースとは死にゆく人が肯定的であったなら、残される側はおそらく、大きな愛と今後の人生の指針を受け取る事になるでしょう。
私も何人かの人間の死に目にあいましたが、多くの人は今までの自分や自分の人生の至らぬ部分を悔い愛を伝えます。目前の死をキッカケに、多くをそぎ落とした結果として「愛」が残るからです。そして人によっては死をキッカケに残された人たちに思いや願いを託します。
それを互いのオーラのテリトリーやエネルギーの交流の中で受け取るので、今際の際に相手から受け取る影響はとてつもなく大きいです。
人間は「思いを実現する力」があります。
カルマ的な拘束力が人間の想いを上回らない限りは、自分の死期はある程度コントロール出来ます。
つまり、愛する人の顔を最後に一目見たいという想いは長くはありませんが命を繋ぎます。それは見守る人間たちの想いも同じです。
そして逆のケースももちろんあります。
それは、死に行く人間が否定心によって「呪い」を残す場合です。
そしてカルマ的な拘束力が無い場合においては、自らの命を諦めることによって、死期が早まることもあるのです。
死に目に会えないスピリチュアルな意味
死に目にあいたくても会えない場合もありますし、「死に目」に特別な意味を感じない人もいます。
もし、愛する人の死に目にあいたくてもあえなかった場合、それ自体がメッセージであり、カルマである可能性があります。
これはよく日本のドラマであるような話しですが、大切な仕事があり、愛する人の死に目にあえなかったことを強く後悔するような話しです。
その人は、自分の選択への苦しみから「仕事」と「人間への愛」を天秤にかけて以後のために選択する機会を得ます。
ドラマのシナリオだけでなく、実際には多かれ少なかれ、浅かれ深かれ、ある話しだと思います。
まあ、誰でも思うことではないでしょうか?愛する人の死に際に、最後に「愛している」と伝えたいという気持ちは。「いままでありがとう」と感謝を言葉にして伝えたいと思う気持ちは。
その機会を喪失したあとの自分への心の影響こそがカルマでありメッセージなのです。
親の死に目に会えない
親は子を愛し、子は親を愛する。
それが普通だとおもいます。中には特殊な親子関係やカルマによっていがみ合う関係もあるかと思いますが、普通は親子というのは互いに愛をもっているものです。それで言うと、怒りや否定心でさえ愛の裏返しという場合もあるのですから。
愛がない関係とは、否定ではなく「無関心」です。
「親は子を愛し、子は親を愛する」という「愛」がある関係を前提言うなら、死に目に会えないというのはとても悲しむべき状況だと思います。
生まれた順番で言えば、先に死ぬのは親です。
看取れなかった、死に目に会えなかったということを後から悔いる人はたくさんいます。
ですが、死に目に会えたならそれ自体がカルマでありメッセージですし、死に目に会えなかったとしても、それ自体もカルマでありメッセージです。
先ほどもお話した通り、それでも私たち人間は想いによって命を繋ぐことができます。
ですから、互いに生きている間に聞いてみると良いと思います。死に目に会いたいと思っているかどうかを。
例えば私の母なら、輪廻転生や魂の永続性を深く理解しているので死に目に私と合いたいとは思わないでしょう。
母との関係性においてなら私も同じ気持ちです。
ですが私は自分の家族には逆のことを思います。
愛する妻や子供たちは私の死に目に会えなかったら悲しむような子たちなので、そのときもし会えるなら、顔を見るまで、愛していると伝えるまで、必ず生きながらえようと。
スピリチュアル的に言えば死は一時の別れでしかありませんが、それでもこの世界には互いを知ることで拭える悲しみもあるでしょう。
ペットの死に目に会えない
愛するペットの死に目に会えない、これも悲しむべき状況だと思います。
ですが、死の悲しさや、死に目に会えない悲しさはある意味人間特有のもので、肉体を失ったペット側からすると飼い主がなぜ悲しんでいるのか理由が分からず、飼い主が悲しんでいることが悲しいといった状況に陥ることが多いようです。
死という状態の変化を人間よりも感覚的に理解しているからです。
ただし、人間のペットになる動物にも個体差がありより高度に感情が発達した動物においては死の悲しみ、もう会えない悲しみを理解し死を悲しみます。
動物の霊は地より生まれ、地に還ります。
死後にこの地球のエネルギーと一つになり、そこから再び生まれ変わってこの地上に戻ってきます。
極論で言えば動物も人間も、輪廻を繰り返しながら出会いを繰り返し、その絆は生まれ変わっても失われることはありません。
愛するペットの死に目に会えなかった、看取れなかった、悲しいことではありますが悔いる必要はありません。
ペットであった動物たちにとっては大切なのは死に目ではなく、死後なお存在する絆なのです。
夜に爪を切ると親の 死に目 に会えない って本当?
これは完全な迷信です。
昔の日本は今のように爪を切る専門の道具もなく、夜の暗闇を照らす十分な照明もなく、衛生面でもいろいろな問題があったでしょう。
夜に爪を切るというのは極めて危険な行為でした。
ですから、夜に爪を切るという危険行為を行わせないためにコミュニケーション上で使われた言葉です。
「良い子にしていないと鬼が来る」とか「夜に口笛を吹くと蛇が来る」みたいな話しと似ていますね。
仕付けの一環として言われていたものなので、実際に死に目にあえないということはありません。
死に目に会う会わないの本質
死に目に会える、死に目に会えないといった話しの本質は、極論で言えばやはり「カルマの法則」の兼ね合いや「魂の成長」のために必要か否かです。
そして人間の思いによって、ある程度は死期をコントロール出来ます。ですから、カルマ的な拘束力が無ければあとは死にゆく人と、見送る人の想いによるところが大きいです。
人間が死ぬと遺品や遺産が残りますが、同じように人間の「想い」も良くも悪くも資産のように残ります。
例えばそれが恨み、つらみ、否定心のようなエネルギーであったならそれらは幽界(アストラル界)の領域に想念の蓄積として残り、死者の魂を縛ったり、関わりのある生者の体や人生を蝕んだりします。
逆に、祈りや愛のような純粋なエネルギーであった場合、良き想念は幽界(アストラル界)に蓄積し生関わりのある者の護りとなり、死者の霊が霊界に赴いた後にも互いを天と地を超えて結ぶ絆となるでしょう。
終わり良ければすべて良し
なんて言葉があります。
すべてが言葉通りではありませんが、終わりというのはやはり節目で、とても重要なタイミングになるので逝く側も見送る側も…
愛に満ちたときをともに過ごせたなら幸いです。
ウリエルさんこんばんは。「死に目に会えないスピリチュアルな理由」のブログを読んで思う事。「死後なお存在する絆」いい言葉ですね。ウリエルさんのブログを読んでいると、いつも感じるのですが怒涛の如く色々な事が言葉として溢れ出てきます。そして心の感情に響きます。刺がないと云うか四角ではない丸。そんなイメージで温かみを感じます。(言葉知らずですみません。)これってウリエルさんの発する波動?なのでしょうかね。
愛がない関係は否定ではなく「無関心」と言う言葉・・とても深く考えさせられます。「動機が愛ならば・・・」と教えて頂いた考えと通じるものがあります。「愛」と「感謝」私にとって、生まれてからずっと側に有って焦点にされなかった大きなテーマ「愛」。私の課題はこれを学ぶ為だったのかなと、ふっと思いました。「心を清めて愛を持って生きる」いつも有り難うございます。
こんにちは。
私は母の死に目に会えませんでした。母は早朝ひっそりと心臓発作で息を引き取ったからです。でも母らしいなあと思います。生前いつも誰もいないところでひっそりと死にたいと言っていたからです。その言葉のとおり誰にも見送られなくても安らかな死に顔でした。
そして私は母が亡くなる前に愛を伝えられていたので本当に良かったと思いました。最後に会ったときもじゃあまたねと挨拶をして別れていました。人間としての別れはいつなのか分かりません。日頃から愛を伝えておく事、笑顔で別れることが大切だなあと感じます。