ケチな人をスピリチュアル的に言うと
ケチな人っていますよね。ケチって基本的には褒め言葉ではありませんし、ケチと倹約家って何が違うのでしょう?
モノやお金を大切に使ったり、支出を抑えるという意味ではケチも倹約もやっていることは似ていますが、「倹約家」と言われるとすこし褒められてる気がしますが、「ケチ」と言われると悪く言われている感じがします。まあ、ケチという言葉の意味自体がそもそも「卑しい」みたいな意味を含んでいるのでどちらかというと人を悪く言う言葉ではあるのですが…
ケチをスピリチュアル的に言うと、じつのところ善し悪しです。
そしてケチと言われず、倹約家と言われるためのひとつの境界線についてお話しできたらと思います。
正しいケチり方の話しですね(笑) そしてケチの本質についてです。
【目次】
ケチとは? ケチの意味
けち けちは、金銭や品物を惜しんで出さないこと、また、そのような人。 吝嗇家(りんしょくか)ともいい、「けち」に「吝嗇」の字を当てることもある。 また、特に金銭を溜め込むことに執着する人物は「守銭奴(しゅせんど)」と称されることもある。
Weblio辞書
ちょいと言葉の意味を確認するために調べてみましたが、ケチという言葉に良いイメージがわかないのは「惜しんで出さない」「執着」などモノやお金に対する我執がその意味に込められているからでしょう。
そして相手にケチと感じるときも同様で、持っているのに出さない、出すべきときに出さない、それがケチと思われる大きな要因のようです。
さて、そしたら私からひとつ質問ですが、
あなたはケチな人ですか?
もしあなたが支出を抑えるあらゆる行動をとっていたとしても、出すべきときに出しているなら「倹約家」を言われるでしょう。
出すべきときに出さなかったなら、「ケチ」と思われるかもしれません。
そして出すべきときの定義はひとそれぞれなので、基準を持つのは難しいかもしれません。
出すべきときとはどのようなときなのか?たとえ話を交えて説明できたらとおもいます。
ケチと倹約の境界線
たとえばですが、こんな人はどうでしょうか?
夏の暑い日々、支出を抑えるためにエアコンは使用しません。
そして、ペットボトルの飲料は一切購入せず、家で煮出した麦茶を会社に持っていったり飲んだりしています。
客観的に言えば、「倹約」と言えると思います。
なぜなら、必ずしも出すべきところではないものを切り詰めているからです。
ですが、これにひとつ状況が足されるだけで、ケチと呼ばれる状態になってしまします。
夏の暑い日々、支出を抑えるためにエアコンは使用しません。
そして、ペットボトルの飲料は一切購入せず、家で煮出した麦茶を会社に持っていったり飲んだりしています。
先日、暑い中古い友人が家を訪ねてきましたが、電気代がもったいないのでエアコンも付けず、水道の水をコップに入れて出しました。
どうでしょう?
せっかく暑い中友人がたずねて来てくれて、節約のために相手にはなんの気配りもおもてなしもしない。
持っているのに出さない、出すべきときに出さない、このラインがケチと倹約家を分けるラインです。
自分だけで完結しているなら、ケチと言われることも無いでしょうが、そこに人を巻き込んだとき、他人にケチと思われたり、ケチと言われる状況が起きます。
ただし、スピリチュアル的に言うのであれば「ケチ」が必ずしも「卑しい」とか「悪い」とは限りません。
次の文脈はどうでしょう?
夏の暑い日々、支出を抑えるためにエアコンは使用しません。
そして、ペットボトルの飲料は一切購入せず、家で煮出した麦茶を会社に持っていったり飲んだりしています。
先日、暑い中古い友人が家を訪ねてきましたが、もったいないのでエアコンも付けず、水道の水をコップに入れて出しました。
私の家は貧しく、そこまでして切り詰めても、愛する息子を希望の進路に進ませてあげるのは金銭的に困難なのです。
もうお解りかと思いますが、「ケチ」が卑しくなくなるときは、動機が「愛」であった場合です。
「冷えたお茶ぐらいだしてあげてよ、」とか、「お金無いなら切り詰めないで働き出でたら?」みたいなべつの部分で思うこともあるかもしれませんが(笑)
その場合も裏側になんかしら事情はあるかもしれません。
スピリチュアルの本質で言えば、大切なのは「愛」です。
この世界は二元的ですが、神の愛は一元的です。
スピリチュアル的に言えば、愛のある行動はたとえ周りの人が「ケチ」と非難したとしても、その愛が正しければ、この世界の法則で言えば正しい行動なのです。
お金持ちにケチが多い理由
お金持ちにはケチが多いと言われていますが、実際はどうでしょう?
お金持ちには大きく2タイプ居るように思います。
- とんとん拍子で進んできてお金に気前のいい人
- 苦労もしてきて、支出を抑える意識の強い人
- 欲に従ってしかお金を使わない人
ケチと呼ばれる人は、おもに2と3の人の中に居ますが、どちらも「出すべきときに出している」ならば、ケチとは言えないでしょう。
3の人は欲深い人は多いですが、自分の欲に含まれることであれば、パーッとお金を使うこともあると思います。
お金持ちにケチが多いか?と言われるとじつは割合的に言えば普通の人と変わらないはずです。
お金を得てタガが外れる人間と、財布の紐がきつくなる人間、両方いるからです。
ただし、「ケチと呼ばれる人」は多いはずです。
なぜならば彼らは「持ってる」と思われていて、「これぐらい出したら良いのに」と思われていて、場合によっては人に妬まれる気持ちを持っているからです。
そして余談ですが、
お金は節約してる、出すときには多額でもさっと決断し出すことが出来る。
成功者に多いのは、この切り替えが出来る人です。
ケチはスピリチュアル的に言うとエネルギーの停滞
この世界のエネルギーは全て繋がっています。
私たち人間は、本来であれば無限なる本質と繋がることが出来ます。
ですが多くの人たちは、利己心によって、これは私の物、私は私といった心で、無限なる本質から離れ去ってゆきます。
たとえば、カルマの法則にしたがって言えば、自分は人に与えた物を得るわけです。
与えることがなければ、得ることもないでしょう。
それは愛であれ、物であれ、お金であれ同じです。
ですから、ケチはあいてに与えない代わりに、自分が受ける機会をも失っている行為なのです。
カルマの法則やお金については詳しく書いた記事があるので、記事下にリンクを貼っておきますね♪
ケチな人のスピリチュアルなまとめ
ケチな人とはお金や物を出し惜しんだり、執着するひとで、一般的にはよくない意味の言葉として使われています。
ケチと倹約の境界線は、「出すべきときに出したか?」という部分ですが、「出すべきとき」という基準は人によっても多少異なり、その為にお金持ちなど、「持っている」と思われている人は「持っているのに出さない」と思われてしまうことも多く、ケチ呼ばわりされやすいです。
この記事を読むみなさんに意識して頂きたい部分は、「ケチ」という行動の裏側にある動機や実状です。
たとえば、貧しい人がケチだとしても、それは生きるためにはある意味あたりまえですし、お金持ちと思ってた人が実際に「持っている」とも限りません。
ケチという言葉の意味がそもそも良くない意味なので、「ケチ」という言葉を簡単にひとに使うべきではないでしょう。
それと、たとえ表向きに「ケチ」と思える行動をとっていたとしても、その裏側の動機が「愛」に基づいていたなら必ずしも悪いとは言い切れません。
私たち自身、ケチと呼ばれる振る舞いはしないほうが良いでしょうし、人を簡単にケチ呼ばわりしないほうが良いです。
そしてスピリチュアルな本質で言えば、私たちは与えたものを自らも受け取るので、積極的に人に与えることが先々の豊かさに繋がっています。
こんにちは
ここ数ヶ月、「そうそう!そうだよね!」と思いながら何度も聴いているB’zのlove me、I love youの歌詞に
「love me ケチってないで、僕はきっと愛をもっと出せる」というところがあって、歌詞全部が好きなのですが、この部分が特に(お金は沢山持ってないからケチるも何も出せないけれど笑、愛ならいくらでも出せるー!)と、この歌詞のように生きているつもりなのですが、本当に愛の方は自分が出してるつもり以上!?に還ってきています。
お金も愛も、全ての豊かさへと繋がるエネルギーとして循環できたなら…世界平和がイメージできます♪
私にはまだまだ学びが必要で、ケチと倹約家の違いもなんとなーく理解出来ている程度です。
ここは、学びの場だと思ってます。
コメントをし始めた頃、私は良くも悪くも目立つから、目立たないようにしたい、みたいな事をどこかに書いたと思います。
なので、ブログへのたくさんコメントをさせてもらったのは、初めてです。
あの頃は目立たないようにと思ってましたが、いつも思うこととあえて逆の事をしてみようと思いました。
不毛な争いはしたくないけど、思った事は伝えたい、と思ってます。
このコメントをしたら、どうなるのかと実験的に投稿した事もあります。
その結果、不快に思われた方いらしたら、申し訳ありませんでした。
そして、私と同じような考え方の人がいらっしゃる事が分かり、嬉しかったです。
結果、いろんな学びや私の立ち位置がなんとなーく理解出来ました。
今は、コメントを始めた頃よりほんの少し知識もついたので、それを実生活で実践しようと思います。
それでは失礼します^ ^
本文とは関係ない話で申し訳無いのですが、
トップ画の青い世界が凄く気になります。
私はぼーっとしている時や、鏡で自分を集中して見ると
視界に青いフィルターがかかる事があります。
見える全てが青になります。
ハッと意識を戻すと元に戻るのですが、何なのでしょうか。
調べても特に解らず、いつもトップ画が気になっていました。
愛を持って清らかに生きていれば問題無いとは思うのですが、どうしても気になってしまい、尋ねて見る事にしました。
こんな事聞かれても困るかもしれませんが….(´・∀・`)えへ
こんばんは!
私は、ケチの話とは関係ないこと書きます、すみません…。
私は、チャクラを、第0から、9まで、YouTubeで聴ける音源などを聴き、第7チャクラも、聞いてる時に、頭に王冠はめられた感覚がして、これで、開いたのだろうか???とゆー感じになりました。瞑想も、たまにしたり、しない時期が長かったりしてますが、5年位前からし始めて、何も考えないでいれる、何も浮かばず、呼吸だけしている状態を、少し長く保てる位、自分としては、中級者かな???て、感じで、スピリチュアルは、勉強中、そして、実践の途中です。チャクラの音楽て、第9までしか大体ない物でしょうか???そして、瞑想、チャクラ、新月の願い事、宇宙の法則、アチューメントと勉強してきて、後は何を勉強すべきですか???七つの大罪とかは、ない方が良いのですか???実践できるものはやっているつもりです。それと、私は、母方の実家の方のお葬式とかのお経を聞くと、激しく頭痛がして、怖い感じがします。しかし、真言宗のお経などは、全く辛くなく、そして、幽霊も確かに去ってゆきました。邪教というものは、確かに存在するのですか???そして、それらはやはり、関わらない方が賢明ですか???家柄の葬儀が、邪教の場合、どうしたら良いでしょう???お墓参りはした方が良いですか???質問だらけですみません。
是非、教えて頂けたら幸いです。