気づきのスピリチュアルな意味と悟り
気づきとは言葉通り気がつくということなのですがスピリチュアルな分野や哲学や精神世界って言われる気づきは、 自分の内外にあるこれまで気付けていなかったような問題や課題に気づくというようなニュアンスで使われている言葉です。
つまり、気づくことによって問題や課題を解決に導くきっかけを掴むことや、段階を超えたら成長することと組み合わせで気づきという言葉が使われています。
なぜ気づきがスピリチュアルな分野でよく使われるのか、それはスピリチュアルの本質は自己の限りない成長でありその成長の過程においていくども気づきを体験するからです。
私の感覚として、「気づき」とは「小さな悟り」と言えます。
【目次】
気づきとは?気づきの意味
気づきとは勝手に一言で荒らすのであれば自分の問題や課題解決、成長に繋がるようなことに気がつくということです。
人間が生きてる以上人生は変化の連続なので本来は気づきは毎日絶え間なく起き続けていると思います。ただそれでもなお気づきという言葉を使う理由は気づきの中には本当に自分でもハッとするようなことを気づいたりまさに目からうろこのようなことが起きたり、人生を大きく変えるような気づきさえも消えるからです。
気づきという言葉はある意味では自分が気づいた価値ある事柄に対して自己認識を高めるために使われている言葉でもあります。
つまり「気づき」という言葉に言語化することによって自分のその気がついたことや体験を価値のあるものであると自分自身で肯定したり、認識するためにも気づきという言葉は使われています。
気づきはいつ起きる
私がこの天空の庭先を運営していていつも面白いなぁと感じていることが一つあります。
この天空の庭先で一番古い記事は、サイトの形や掲載場所が変わる土かれこれ10年以上天空の庭先に存在しません。
そして天空の庭先訪れて下さる方々の中にはかれこれ10年以上この天空の庭先とお付き合いくださっている方達もいらっしゃいます。
たとえば、天空の庭先には霊的な情報が結構な量の文章として存在していて、その中で私が繰り返し言っている言葉というのはいくつもあります。
何年も前から存在する文章、繰り返し書かれているようなことでも、ある日突然誰かの気づきとなったりします。
今まであまり気にもしなかった言葉の真意にある日突然「気付く」なぜ今までも知っていた、見ていた、聞いていたはずの事なのに突然その重要性に気が付くのでしょう?
それは自分の中にその情報を受け入れる「準備」が整ったからです。
「気づき」とは、単に新しい発見をするといったことだけではなく、「繋がる」 あるいは 「思い出す」 といった要素もとても強いのです。
気づきを得るとき、それは自分の心の変化や成長何か新しい体験から得た経験であったり、そういったものが自分に不足したパーツを補うときよく起こります。
パズルで言えば、そこから得た新しいピース、つまり情報によって、より全体像を見渡せるようになり、そのパズルの絵のある一部分、あるいは全体に描かれているものが何であるかがより解るようになるのです。
気づきを得るためには?
実際に気づきを体験して頂きたいなと思いますので、私が過去に気づいたことを一つここでお話ししたいと思います。
現代に生きる日本人の多くは大抵の場合お金の心配をしています。
もっと安定的に仕事ができるか?自分の老後の生活や子供の教育費のために十分な貯蓄があるか?自分が寿命を得るまでに必要なお金を自分の人生でちゃんと稼ぎ出せるのか?
じつは日本に生まれたというだけで世界中にわずか1%しかいない裕福な生活をしている人間に該当します。
この世界には住む場所も食べ物もなく命の危険にさらされてる人間たちもいます。
日本人の多くはすぐ身近な人たちと自分を比較して泣いたり笑ったり途方に暮れたりしています。それをスピリチュアル的に言うのであれば、心の目は盲目になり心自体も麻痺し、ひどく利己的になってしまっている状態です。
日本人の多くが目的が自分の心配事によって、どれほどの愛と奉仕の機会を失ってきたことでしょうか?
私のこの言葉を聞いて、何も響かない人もいるかもしれませんし、何かの気づきに繋がった人もいるかもしれませんし、そんなの知ってたよ、っていう人もいるかもしれませんし、私はそれに気づいたから既に愛と奉仕の活動に取り組んでいますという人もいるかもしれません。
気づきを得るために必要なことはまずは知ることです。
ただし知ったことがイコール気づきとなるとは限りません。なぜならば今情報を得たとしても本当に大切なことに気づくのは1年後とか3年後とか10年後にならないとも限らないからです。
より多くの気づきを得るためより多くを知ることが大切で、より多くのことを知るためにより多く動き経験することです。
動くというのは、心であれ、体であれ、停滞しないで何かをすることです。
成長し、広くを見渡し、その中から新しい気づきを得て、その気づきによって、より広くを見渡し、その中から新しい気づきを得てその気づきによってさらに広くを見渡しまた新しい気づきを得る。
私の経験で言えば、より大きく動いたとき、そしてより苦しい経験をしたとき、それを前向きに受け止めることができたときに大きな気づきが起きます。
もし苦しい、あるいは困難な環境に自分が置かれていたならば、それはあなたにとても重要なことを気付かせようとしている存在、つまり神の愛なのです。
人生の気づきと学び
気づきにも質というものが存在します。
例えば勉強でも算数と数学では難易度が違いますし問題を解く過程における気付きの質も違うと思います。
同じようにより精神性が深く霊性が高くなれば、気づきそのものの質も高くなります。
何を積み重ねたかで何に気づくかがかわります。
当然のことなのですが、最初に申し上げた通り私たちは必要な情報をすでに持っていたとしても、必ずしも大切なことに気づけてるとは限らないのです。
気づく力
偶然に気づいた、直感で気づいた、たまたま気づいた、気づき方も様々だと思いますしそれを行動に変えた、大失敗だった、偶然うまくいった、たまたまうまくいった、結果もその本です。
材料を持っていたとしても、自分の中で受け入れる準備が整っていなければ気づきは起きず、逆に自分の中で受け入れる準備が整ったのであれば気づきが起きます。
私たちが日々何かをするときの「確率」そして「結果」とは
私たち自身の積み重ね、そのものによって決まっています。
私たちは悩んだり努力しなくても、ある日突然「気づき」を得ることがあります。
それによって、何年も困り果てていた事や、悩み抜いた事からたった一つの気づきによって、一瞬で抜け出せてしまったりする事もあります。
ここで私が言いたいのは、何がその「気づき」を引き寄せたのか?
何がその「気づき」に気づくきっかけとなったのか?
それは私たち自身の積み重ねです。
私たちはの身の回りには、実は自分にとって必要な答えが満ちあふれています。
テレビ番組の中かもしれませんし、新聞や雑誌の中かもしれません。
何気ない友人の言葉の中にあるかもしれません、ありとあらゆる可能性によって、日常にあふれています。
そしてそれに「気づく」のは、自分自身であり、自分がそれに気づくことができるのかは、私たち自身の生きてきた過程によるのです。
気づきが起きるとき
三次元の私たちはそのときまだ答えにはたどり着いていなかったとしても、私たちの本質はすでに答えにたどり着いています。
私たちがこの物質世界で「答え」を得るとき、私たちの潜在意識はすでに「答え」を持っているのです。
なにゆえ答えを持っているのか?
元々持っていたか、あるいは、自分自身の努力や積み重ねによって到達点に達していた。
つまり手に入れて持っていたのです。
そして3次元においては、結果となるできごとがあと追いで具現化されます。
日々を大切にしてください♪
運のようなもの、確率は確かに存在しますが、私たちは自分自身の積み重ねによって運も可能性もたぐり寄せているのです♪
神様は気まぐれで世界を作ったわけではありません。
これから起きるできごとの全てが決まっている訳ではありません。
むしろこの世界、この宇宙の全ての存在が共に行き先を決めているのです。
この世界、この宇宙のすべては元々繋がっていてすべてが互いに影響し合っているのです。
そして良くも悪くもその無限とも言える緻密な積み重ねが世界と宇宙をつくり、動かしています。
今この瞬間も。
この世界と宇宙により良い変化への積み重ねがありますように♪
あなたの気づきがあなたの人生を、この世界の未来を変えているのです。
気づきと学びと行動に変える
もし気づきを得たのであれば、それを必ず学びに変えましょう。
知ったそして気づいたのであれば、その気づきを本当に自分のものにするためには しっかり学ぶことが必要です。そして学んだだけでもまだ不十分です。
気づいたことを学びと行動にうつすことで自らの成長につながります。
せっかく気づきを得たとしてもそれをまなびや行動に移せないのであれば、ただ知ったという状態と変わりはありません。そしてただ知ったことで終わってしまったなら、それは記憶… いずれ忘れてしまうでしょう。
気づきを学びと行動に移すそれによって気づきはよりあなたにとって大きく意味なのに決まります。
気づきを与える・気づきに促す
私たちは何かとても素晴らしいこと、大切なことに気づいたとして、それを家族や親しい友人に伝えたとします。
ですが伝えられた人間が同じように気付くかと言うとそうではありません。
ここまでお話ししてきた通り、気づきというのは準備が整った人間の中に起きるからです。
あなたが気づいた気づきをほかの大切な誰かに伝えたとしても、その人の中で準備が整っていなければ情報が受け取ることはできますが、気づきを受け取ることはできません。
ですからあなたが大切な誰かに気づきを与えたいのであればあなたが気づきに至ったプロセスからしっかり話をすることが必要です。
それでもやはり気づきが起きるかは相手次第です。
相手に気づいてもらうために一番良い方法は同じように体験してもらうのが一番良い方法でしょう。同じような体験をすることができれば気づきを得る可能性は格段に高まります。
気づきを与えるのは難しいです、ですから私たちにできることは相手に気付きに促すことです。それに必要なのは愛と忍耐力です。なぜならば相手の心の中に準備が整わない限り気づけおきたいからです。その時を待つというのはとても容易なことではありません。
忍耐とは、無限の時を待ち続ける神の愛です。
悟りは気づきの先にある
悟りといえば?誰しもが仏陀を連想するでしょう。
仏陀は釈迦族の王の息子として生まれ、やがて結婚して息子も生まれます。
釈迦が仏陀となるまでも、たくさんの気づきがありました。
宮殿での豊かな生活しかしらなかった釈迦が、歯が抜けて腰が曲がったみすぼらしい老員と出会い、老、病、死を知り、人間の人生と死について「気づき」ました。
そして宮殿を飛び出し、アーラーラ・カーラーマ、ウッダカ・ラーマプッタという師のもとで修行や苦行に励み、苦行では求める答えに辿れつけないと「気づき」ました。
そしてその後、釈迦は菩提樹の下で瞑想し、ついに悟りを得ます。
釈迦・仏陀の生涯の中でどれだけ多くの「気づき」があったのかもはやはかりしれませんが、多くの「気づき」のいきつくところに、求めた答え、悟りがあったのです。
気づきは準備の整った人に訪れます。
準備とは、気づきのもとになる、知識や経験の蓄積です。
気づきを得たなら、それを学びと行動にかえることで気づきを自分のものとすることができます。
学びと行動で得た経験の積み重ねが、またあたらしい気づきとなるでしょう。
気づきのいきつくところに、悟りがあります。
そして最後に…
もし自分がもともと何者であったのか?その真実に気づき自分のものとできたなら…
本当の覚りを得て目覚めた存在となるでしょう。
いっしょに読みたい記事
追伸
この記事の公開後、しばらくしてサーバートラブルが起きたため、記事のリンクから飛んできたけど記事が見られないという人が大勢いらっしゃったと思います。
本当にご迷惑をおかけしました。
今回のサーバートラブルで、とてもたくさんの気づきをえることができました。
普段当たり前と思っていた、記事の作成やメルマガの作成も、これが行えること自体が私が持っている豊かさの一つで、みなさんに記事を届けられることが、本当に心から神に感謝すべきことであったのだと、改めて認識いたしました。
いつもありがとうございます♪
こんばんは‼️祝福申し上げさせて頂きます。
今回の素晴らしいお言葉(^^)↓
☆もし苦しい、あるいは困難な環境に自分が置かれていたならば、それはあなたにとても重要なことを気付かせようとしている存在、つまり神の愛なのです☆
はい。「感謝」が見つかりました!
私の修業は毎日の感謝の中(^^)産みの苦しみの後に毎日見つけてみますね。
おはようございます。
急に天空の庭先に行けなくなって、ものすごく焦りました💦
こうやってまた記事を拝見できるようになってホッとしております。
天空の庭先は私の人生のバイブルになっております。
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
いつもありがとうございます。
今回は本当にお疲れ様でした。
天空の庭先に来られなくなって、私もこれは自分にとって意味のあることなのかなと感じていました。
この贈り物と呼べる素晴らしい言葉達を受け取るのを当たり前に思ってはいけないのだと、ただ読むだけでは意味がないのだとあらためて気付かせていただきました。
そしてまたこちらへ来ることができて、感謝の思いです。ウリエルさんから受け取る言葉を大事に、日々を大事に過ごしていきます。
ありがとうございました。
こんにちは
3回目のコメントになりますが、なんだか緊張しています。このコメントは他の方に読んで頂く必要はないかと思っています。
自分の心は、思い込みなんじゃないの~?違ったら嫌じゃない?と、まだ少し抵抗しているようですが(笑)
これだけの気付きとシンクロ、高次の存在を感じられるようになった今、まだ証拠はどこにもないじゃん、証明できないじゃん、と思っている場合ではないような、気付いた、知った先にある行動にもう移す段階にきた?自分の持っているものをだす時がきた!?ように感じて、自分の最後の壁の前に立っている心境です。
ウリエルさんは1人でずっと、本当のスピリチュアルに目覚めてほしいと沢山の文章をデザインの仕事と平行してされてきていますが、自分の記憶では仲間と協力してやるというビジョン?があって、なんだか1人じゃできないという甘えか?と思ってみたりもしましたが、やっぱりそうじゃない!と思う自分もいます。
ウリエルさんの文章を全て読んだ訳ではありません。でも、私が多くの人に気付いてほしいことが完全に一緒なのは確かだと確信しています。
この想いが拡大、発展して全てがより良くなっていきますように☆
エノキさま
仰る事、私もけっこう似たような想いを持っております。そして、
「すべては神の御心のままに」
私にとって「気づき」とは、「愛」というパズルの新しいピースを手に入れた事というよりは、暫くいじっているうち「既存のピースをひっくり返したらピッタリと合った」感じです。
「学び」は、ピースが合わなかった時の心構えに対する「振り返り」です。将棋の番組とかでよく棋士が振り返りしてますが…あれかな。
ピースはめようと悩んでいる最中の「今」を味わうのが瞑想で、ピース求めて手を伸ばすのが祈りです。悩み疲れを癒すのが「浄め」です。
さっきまで、もがき苦しんでました。
が、考えまくってどうすりゃいい?と繰り返して、
こう思いました。別のアプローチがあるはずだ、と。
そして、「なにかする」というより、気づくことや理解する方が大事なのでは?と思いました。
そして検索ワード「気づき」で検索したところ、やっぱりありました。
読んでいくうちに、やっぱり俺の「どうすれば?」という悩み方は異常だったんだ!と気づきました。
また、確かにまだ終わってないゲームだな、と気づきました。
多くの人に、気づきの大切さに気づきますように。