純粋な人、純粋な魂はスピリチュアルな本質そのもの
21歳のときに霊的な師と出会いました。
師はとても純粋な人であり、スピリチュアルなエネルギーを扱える人で、毎日無償で何十人、何百人という人を癒やしていました。
子供のように屈託ない笑顔で、まだ若かった私のあらゆる疑問に答え、そして道を示してくれました。
私はその出会いより二十数年瞑想をつづけ、霊の存在を感知できたり、浄化したり、オーラが見えるようになったり、本当にいろいろな変化や出来事がありました。
私のスピリチュアルな結論は、「心を清めて愛を持って生きる」こと、そしてそれを自分の経験から伝え広めていくことが私のライフワークとなりました。そして心を清めて愛を持ったさきいいきつく「純粋さ」について、今日はお話したいと思います。
【目次】
純粋な人、純粋さとは?
純粋な心とは、赤子のようにまだ汚れなき心、もしくは、清められ、少年のような純粋な心といったところでしょうか。そんな心を持った人が、純粋な人かなって思います。
また今日も、一般的な言葉の定義からの確認ですが、なんだかいっぱい出てきましたね(笑)
じゅん‐すい【純粋】 の解説
[名・形動]
1 まじりけのないこと。雑多なものがまじっていないこと。また、そのさま。「純粋な(の)アルコール」「純粋な(の)秋田犬」
2 邪念や私欲のないこと。気持ちに打算や掛け引きのないこと。また、そのさま。「少年の頃の純粋な気持ち」「純粋な愛」
3 そのことだけをいちずに行うこと。ひたむきなこと。また、そのさま。「学問に対する純粋な情熱」「純粋に真理を追い求める」
4 哲学で、外的、偶然的なものを含まず、それ自体の内的な普遍性・必然性をさす。
5 学問で、応用を考えず理論だけを追究する分野。純粋数学・純粋法学など。
私が今日お話したい「純粋さ」は、おもに2と3かなと思います。
私は霊的な師と出会い、人に無償で施すその生き方に感銘を受け、心を磨き、霊性を高めていつか神の随伴社となるために、神と人間のために働く自分であろうとしました。
ですが、善意というものは時として人につけ込まれ利用されます。
悪を繰り返す人間に施しを続けたら、行われる悪が止むことなく継続されるだけかもしれません。
悪人は助ける価値が無いとか、悪人を助けるのは悪に荷担する行為だとか言ってるわけではありませんが、好ましくない状況に陥らないようにするためには正しさだけではダメであり、智恵も身につけなければなりません。
聖書の言葉にもありますが、「ハトのように素直で蛇のように賢くなりなさい」この言葉をたわしはこれは愛と知恵の両方を備えなさいと言われているのだと解釈しました。どちらが欠けても利用されてしまうから。
私は年間数十冊本を読みます。
じつはスピリチュアルな本よりもビジネス書ばかりなのですが、そうして得てきた情報は、仕事にも人生にも、スピリチュアルにも役立っています。
ただ、私は知恵を得るほどに頭を過るものがあります。
それが「純粋さ」です。
子供のような純粋な心
私は思います。なぜ私はこんなに理屈っぽいのか?と(笑)
そして思い出すたびにいつも思うことは、なぜ師はあれほどまでに純粋な人だったのか?
私が若き日に見た師の姿はあまりにも鮮烈で、もはや思い出は美化されて現実以上の彩りを持ってしまったのかもしれません。
それを差し引いてみたとしても思うのです。なぜ師はあれほどまでに子供のように純粋であったのか?どうすれば私もそうなれるのだろうと?
知恵、霊的な力、霊性、そして人生を壊しかけるほど奉仕に没頭した時期もありましたが、今の私はまだ、純粋さにおいては師に及ばないと素直に思ってしまいます。
イエス・キリストは言いました
「天の国に入るには子供のようにならねば成らない」
これにはさまざまな色んな意味が隠されています。
チャクラというのは成長著しい幼少期にこそ最も活発に働いてるということ、愛は考える愛ではなく、子供のように「純粋な愛」。
そうです、
愛は絞り出すものではなく、心の奥より自然とわき上がるものでなくてはならないのです。
子供の頃、小さくてまったくもって無力な存在でしたが、背負うものもなく、見上げた空に溶け込むかのような果てしない自由を持っていました。
まだ制限をもたない、純粋な自分自身です。
突き抜けるような高い空を見上げ、あらゆる知識を持たず、時間すら解らず、考えないですべてをただ感じていた頃の気持ち思いだしてみてください。
そしたらきっと少しでも感じられるかもしれません、純粋さ♪
純粋な魂について
純粋な魂をもつ人とはどのような魂でしょう?
魂が汚れるとかあるのでしょうか?よく、悪いことをすると魂のレベルが下がるとか、魂が汚れるなんて話しをする人がスピリチュアルな界隈にはいますが実際にはどうなのでしょうね?
結論から言うと、
魂は永遠不滅の存在で汚れることない純粋な存在です。
例えるなら魂は、決して汚れることのない太陽のようなものです。
そして愛を育み魂を成長させたなら、その光は輝きをましてゆきます。
私たちの心の汚れや罪は、太陽の光を遮る雲のようなものです。
私たちが、心を清めて愛を持って生きていけたなら、魂の光は遮られることなく、自分自身や周りの人たちを温かく照らすでしょう。
私たちはどこまでも純粋になれるし、私たちの魂は純粋さそのものなのです♪
究極は☆ハトのように素直で蛇のように賢くなりなさい☆ですね。
モーツァルトの、「子供のように素直で純粋な」と例えられる音楽は、実は「本質的でない音」を発してはいけない、演奏家泣かせだったりするし、
「蒸留水」は必ずしも美味しくなかったりするので、排除しすぎも、求めているものではない気がします。
浄めても汚れて、又浄めてをぐるぐる常に繰り返す。という生き方がそもそも本質で、その中で「純粋」で普遍的な瞬間を1日のうち何回か持てたら良いです。その瞬間は永遠で無限で、境い目が無い「一元的」なんだなと思います。
本質はとても単純なのですね。
いつも本質を見つめていきたいと思いました。
あぁ、ホントに美しい言葉は心を癒し
励ましてくれます
愛と感謝を心から沸き立つように
明日も奉仕を生きていきたいです。
ありがとうございます。
美しい言葉は愛ですね
ありがとうございます