心を清めて愛を持って生きる
心を清めて愛を持って生きる
この天空の庭先の最大のテーマにして、私自身の結論でもある言葉です。
ここ一ヶ月ぐらいでしょうか? 心を清めて愛を持っていきるにはどうしたらよいか?という質問を沢山の方々からメールで頂きました。
なので近々日記に記事を書こうと思っていたのですが、まあ、簡単な事ではありませんよね(笑)
私はたったこの一行を天空の庭先だけでも9年、人生においては十数年、あらゆる方向や手段を用いて説明し続けてきたのです。それでも日頃から「心を清めて愛を持って生きるにはどうしたらよいか?」という質問は定期的にいただくので、このテーマの深さを感じます。
お答えを今回は4つの側面から用意してみました。
意識をしてるならまずはOK
「心を清めて愛を持って生きる」 私にとっては、人間が空気を吸って吐く事と同じようなような感じです。
人の魂が完成を目的に、自己の成長の為にこの厳しい世界に何度も輪廻転生を繰り返すわけですから、今この世界に生きて、さまざまな思いをして、葛藤して、人生を全うしようとしている。
意識的に悪を行っているのでなければ、ただ生きているだけでも、すでに「心を清めて愛を持って生きる」を実践しているのと同じ事だと思います。
過去の聖人聖者から学ぶ
「心を清めて愛を持って生きる」 過去の聖人聖者達もあらゆる手段や方法を用いて伝え広めてきた事です。キリストや仏陀、マザーテレサなど、素晴らしい生き方や教えを過去の聖人聖者より学びましょう。答えは一つでも、それに至る過程は一つではないと思います。
マイナス要素を取り除く
私がどのようにして「心を清めて愛を持って生きる」を実践しているかについてです。
この庭先にずっと書いてきた通りです。
今それを短い言葉になんとかまとめてみるとするならこんな感じでしょうかね?
心を清める = 我欲や利己心、否定心を捨て、無になる
愛を持つ = 己のごとく人を愛する。
自分を無にする(我欲を捨てて心を清める)と永遠不滅の魂だけが残る。
それが人が神へと至るという事なのです。
あなたの魂は「光」そのものです。
神より分かれ出でた神性そのものだからです。
愛はあなたの本質です。あなたの愛が増せばあなたの魂の光は大きく強く輝きまします。
あなたは愛を学び、魂の光を大きく成長させるためにこの世界に学びに来ました。
この世界において、あなたの魂の光を遮る、あるいは覆い隠すものがあります。
それはあなたの、「罪」「我欲」「否定心」あらゆるマイナス要因です。
それはあなたという光が、神という光や、他者の魂から発せられる光と結びつくための妨げとなります。
つまり、私達が本質である、むき出しの光そのものに、愛そのものになるためには…
その光を神や他者の光へと届かせ結びつくには….
光を遮る物、つまり自分自身のマイナス要因を取り除く必要があるのです。
これを他者との関係でみると、自分の心だけが清くても光を伝えることができないこともあります。相手の心を清めなければ伝えられないこともあるという事です。
具体的な方法
どうやって清めるか? どうやって愛をもつか? 方法についてです。
清めに関しては、人間が一日にもつ3万ほどの感情や思考、想いの全てから、我欲や否定心をなくす事です。つまり悪い事を考えない習慣を作る事です。
想いは実現する、想いにもカルマの法則が作用する、これも繰り返し伝えてきたことです。
であれば悪い想いを持たず、良いことだけを想えたならその人は良くなるばかりです。
例えば、ひとつ悪口を言われて1時間腹をたてる人間も居れば、5分腹を立てる人間も居ます。
まったく腹を立てない人もいるでしょう。あなたはどうでしょう?
モーゼは目には目を歯には歯をと教えましたが、キリストは、右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさいと教えました。
私がどうやっているかについては、自分が悪い想いを持たないか、自分自身で注意深く監視します。悪意には祈りをかえします。あとは「内省」「祈り」「瞑想」によって日常の3万ほどの想いをできるだけ良い想いにかえていく努力をしています。
おかげで未だに妻とは喧嘩一つしたことがありません♪
愛に関しては自分のように人を大切にする、愛するという心を養う事です。
愛を育む
自分の愛を自分で育てるんです。
人は自分が苦しみを受けたとき、その苦しみから他人の苦しみを学ぶことができます。
例えば、今日目の前で苦しんでいる人を見過ごしたとしても、自分が学びさえすれば、明日には手をさしのべられるかもしれません。
私達は今生きている人生から学び、それを糧に自己の内の愛を育む事ができるのです。
そのためにわざわざ生まれてきて、人間なんかやっているのですから(笑)
さてさて、まだまだ語り尽くせたとはとうてい言い難いですが、今回はできるだけ中心的な部分を抽出して書いてみました。
分からないことがあれば聞いてください。
疑問にお答えすることで、普段では得られない深い考察を得る事ができる、みたいな事はよくある事なので♪
いつもありがとうございます♪
沈黙は聖者の知恵
沈黙は聖者の知恵…
先日のブログで投げかけたこの言葉の問いかけはある意味禅問答のようなものなので、実は答えのある性質の言葉ではありません♪
ですが、この言葉から想像できるような知恵はとてもたくさんあると思います。
- 沈黙(瞑想)より答えを得る
- 口は災いの元
- あえて口に出さないことで相手に答えを考える機会を与える
- 言わずに相手の想像させる
などなど・・・
おおむねみなさんがお答えしてくださったようなものです♪
映画やドラマでも、「無音」の演出なんかあります。
日常でも、沈黙はいろんな場面で使えると思います。
私もよく、すぐにぱっと答えないで一端間を開けて答えか沈黙かを考えます。
たとえこちらが正しくても、あえて口にしないという選択が、後々の事を円滑に進められるなんて事も良くあります。
自分の態度を感情的なものから思考的なものにするのにも、この一瞬の沈黙はとても有効です。
みなさんの知恵で、みなさんの思うように、「沈黙」を日常に役立ててみてください♪
ウリエルさん今晩は♪
今日も素晴らしい記事をありがとうございます♪
読んでいるだけで、心が清められるようです。
質問なのですが、心が清められて、(神のような)愛を持つようになると、恋愛が始められなくなってしまうような気がするのですが、それについてはどう思いますか。主旨とは違うような気もしますが、もし良かったら教えて下さい。
よろしくお願いします。
ウリエルさん
初めまして。去年から見させて頂いてます。
精神的に一番辛い時期にたまたまこのブログを発見して、夢中になってほぼ読破しました。
お陰様で、最近はとても気持ちが落ち着いています。
本当にありがとうございます。
自分がどう生きるべきかは分かってきたのですが、ある人に対してどう接するべきなのか、悩んでいます。
その人に幸せになってほしい。人生は楽しいと思ってほしい。そのために私はどうすれば良いのでしょうか。
一言でもヒントを頂けたら嬉しいです。
宜しくお願いします。
J.S
守護天使はラファエルさんこんにちわ♪
「天 の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
というキリストの言葉がありますね♪
私が出会ったトヨタさんという方はまさにそのような方でした。
実際は、「恋」という感情はカルマ的に人を結ぶ引力なので、恋心というのは必要があってわき起こるものです。
聖人聖者の中には伴侶を得て共に人生を生きたような人達も居ますから、心を清めて愛を持っていきる事と恋愛が矛盾する事はありませんよ♪
これもつまるところ動機が愛であるかどうかだと思います♪
いつもありがとうございます♪
J.Sさんこんにちわ♪
私の言葉に君を傾けていただきありがとうございます♪ この庭先が何かの参考になれば幸いです。
全ての人間に「自由意思」があります。
その方にはその方の想いや意思があります。
それがたとえ、否定的なものであったとしても。
どのように接するかについては、期待をおしつけない事、見返りを求めない事。
見守る、支えるという行為に依存する事がないように、自分自身の行為の源がいつも愛であるように注意深くあってください。
人は誰しも自分自身でしか覚る事は出来ないのですから、その時まで見守れる忍耐と愛を持ってください。
私が言えるのはこんな事です。
ウリエルさん
お忙しい中、コメントありがとうございます。
人の気持ちを変えようと思ってはいけなかったんですね。その人を信じて見守っていこうと思います。
ありがとうございました。
J.Sさんこんにちわ♪
促すとか導くといった感じです。
最近思うのは子育てに似ています。
ウリエルさん
質問に応えて下さりありがとうございます♪
僕の中で「恋は自分本位なもの、愛は相手本位のもの」という認識があっって、互いに矛盾するものという風に考えていました。
ですが、恋愛感情も清められてゆくと純粋な愛となり、矛盾はないのかもしれませんね。
いつか神を信じる清らかな心をもつ人と一緒になって、共に信仰を高め合えたらいいなと思いますが、なかなか出逢いが無いです(T-T)
守護天使はラファエルさんこんにちわ♪
人それぞれいろんな生き方がありますが、独身にしろ、恋愛するにしろ、結婚するにしろ、大切なのは自分の生き方の根本が愛であるかどうかです♪
互いに成長を助け合い、支え合えるパートナーと出会えたならそれは幸いです♪
望めばきっと会えると思いますよ♪
ウリエルさんこんばんは。
記事とは関係無いのですが質問させて下さい。
私はウリエルさんの過去記事を拝見しましてアストラル界というのを知り私が思っていた疑問をさらって説明していただいたような気がしました。でも又新たな不思議が生まれ質問せずにはいられませんでした。
アストラル界にはキリスト信者、仏教徒、民間信仰徒、それぞれが信ずる世界が存在するということでしょうか?
あるとしてもそれはやはり偽りの世界という事になるのでしょうか?
私はどこにも属していませんが、ひとつの道を信じておられる方は、他宗教を忌み嫌う方達があまりにも多すぎる気がしてなりません。
あの人たちに上はひとつなのだと言っても通じる訳も無く・・・
ウリエルさんこんばんは。
初めての書き込みです。
>>そのためにわざわざ生まれてきて、人間なんかやっているのですから(笑)
思わず笑ってしまいました。
身体さえなければもっと自由になれるのにと
もどかしさを感じつつ・・・
この身体があるからこそこの地球でいろいろな事を体験できるのだから
お好きにどうぞ?と我が身を差し出し
後はなすがまま?
神の領域に対して私は無力(笑
恋愛にしても仕事にしても人生に与えられたままそのままを感謝して今を楽しむ!
人間として縁あってこの地球に産まれたのだから
人間としてこの地球で生きる醍醐味を味わいつくしています(笑
サトさんこんにちわ♪
アストラル界には人間が想像することの出来るあらゆるものが存在します。
サトさんがお察しの通り、それぞれの宗教はもちろん、文化や民族が信じる世界、天国とか三途の川とか、なんでもあります。
人々の想像が生み出した世界です。
詳しいことはサイトにまとめたので
http://arcangel.jp/Spiritual/06Invisible_World/00.html
こちらの霊的世界の構造のカテゴリーをみてください♪
タロさんこんにちわ♪
身体さえなければ、私も何度もそのように思いました♪
あと一生寝てられたらどれほど楽かとも(笑)
タロさんのように考えられたら、あとはもう自分の人生を全うするだけですね♪
お互い、この世界で存分に学び、楽しみましょう♪