大きな声で歌うと古いエネルギーが発散し浄化される

歌はエネルギーを解放させてくれます
抑圧された内部のエネルギーを外に開放する方法として、声を出すという事はとても有効です♪
日常生活でよく鼻歌を歌う人とか、好きな歌を歌う人は、心を抑圧するエネルギーを外に出すのが巧い人が多いです。
これは水の流れににているかもしれませんね♪ ため込まない、淀ませない。
ですからたまには大きな声で歌いましょう♪
余談ですが、私の母はよくさだまさしの「無縁坂」とか歌っていました(笑)
こんな歌詞です
「運が良いとか?悪いとか? 人は時々?口にするけど? そお言う事って? 確かにあると? あなたを見てて? そお思?う」辛い気持ちを外に出していたのでしょう。
それはそれで構わないのですが、言葉と具現化の仕組みから言うなら、できれば明るく楽しい歌を歌えたらその方が良いでしょう♪ ですが自分が楽しむ事が大切なので、気が晴れる歌で♪
カラオケボックスとかでも良いと思いますが、自然の中でたくさんの仲間と一緒に歌えたら気持ちいいでしょうね♪
スピリチュアルな観点より
神は光(色)と音(言葉)と幾何学でこの世界を作ったと言われていますが、大きな声で歌うのは音と言葉の部分ですね♪
これまで説明してきたもので、「言葉」とかありますが、よりよい言葉、そしてより良い「音楽」であれば
自分自身の整調も含めてより良い効果が出ると想います♪
でもそんな事ばかり言ってると歌も限られてしまうと想うので、好きな歌を想いっきりでまずは良いでしょう♪
歌を歌うのは大好きです。
カラオケには行ったことはありませんが、
家の中で思いっきり、歌います。
最近は無いですが、少し心がひずんだときに、思いっきり大声で歌ったら、背中から湯気が上ってくるかのように熱くなってきたのが印象的でした。
「薄っぺらいものに引き寄せられる。」
捉え方はだいぶ違うかもしれないけれど
半分はめっちゃわかります。
最初に思いつくのは、はっきりしたことを好む習性というか。分析を容赦なくして、それを全てだと思いこんでしまう自分も含め。
(バランス、均衡状態がずれること、それは、全ての喜びの起源であり、悲しみの起源でもあり、この世の始まりであると最近はそう思うし、違うとも思います。)
その切り取られたものしか見ることができない故に、それに慣れすぎて本来の姿を体現できなくなってしまうこと。
切り取られたものを繋げるというのが愛?という表現だと思う。
全てが均衡状態になったとき、なにもなくなる。のではないかと思う。
不均衡の状態で均衡を思い出させる、幾何学や音楽や美しい人に無意識に惹かれるのは、
哲学でいうイデアを、均衡状態のときを、言葉が存在する必要がないくらいの愛を私たちに思い出させるからなのかなあと思う。
なんていうこの文章こそ切り取られたものであると思うけれど。
つまり薄っぺらいものに惹かれるというのは、今の私たちにはそういう切り取ったことしか見えないし、捉えられないからだと思う。
けれど、それが愛しい性 って言っていた
漫画に出てくる おじいさんの言葉でちょっと
うる って 涙が出てきた。
「分かるってことは分けるってこと」って数学ガールっていうとてもわかりやすい数学の本で読んで
確かにそうだなあと。
まあ限りなく分析をすれば、限りなく統一論らしきものは、出てくる可能性はあるけれど、完全な統一論自体は、分析をして出てくるもんじゃあないなあと。
半分はめっちゃわかりますと言ったのは
規則性の中に偶有性が混じっていると惹かれるってのがあるから。ゲームも一応そういうふうに作られているらしい。あとはギャップ萌えとか数学とか科学。
規則性はあるけれど、複雑性にも富んでいる。
自分の中の一人格が 茶道をバカにし始めたので、
茶道のことについて調べたら、わびさびとかいう概念。茶道という形式的な規則性溢れたものに、わびさびという規則性を、
あえて崩すようなことをすることで、
場にピリっという緊張感ではなく
和ごみ(使い方あってる?)を与える。
茶道ってなんか誰が考えたのか知らないけれど、めっちゃ魅力的なものに思えてきました。
生きるってことは流れるってことなんだなあって、。
だから惹かれるものが、薄っぺらく見えることもあるけれど、違う視点からみると、こうも、変わるもんなんだなあと。
カジュアルの良さとも言えるかも?
だから完全に潔癖になる必要はないというか、
個人単位では、なかなかなれない(な が多い😂)ですね、どこかで息苦しくなってしまいます。
ただ、さすがに、自然のバランスが崩れた食品を取りすぎるのは、やはり体には良くないようですね。
潔癖になる必要はないと言いながらも、私は ややそういう傾向があり、神経質で、極端です。だからこそ、他の人と違う視点で視れると諦めて、そういう食品は基本的に口には入れないですし、体の反応は正直です。
また傷つきやすく、親は厳しいですが、
未だに傷つきやすいので、おそらく慣れの問題ではないようです。これも諦めています。
とにかく私たちが思っている死も
さっきの定義でいくと、生きているということなので、どっちみち生きる他ありません。
生きているということはいつか過ぎ去る。基準点を外して、時待ち、自身ではなく、外側を見渡しできることをする。(内側に矢印が向きすぎているときは)
ひたすら眠る自身を許す。
つまり内側と外側の均衡を保つ
それが最終的に自身を救うのだと。
何故ならそんなもの存在しないから。
本当に私だけだったらこんなこと思いつかなかっただろうなぁと
色んな人や(勿論ウリエルさんも)流れや、存在が様々な形で
教えてくれるものがあったからだと。
だから感謝を忘れてはならないし、
今の自分の視点も自分自身のものではなく、
皆の ものでもあると思います。
私はたまたま恵まれた環境にいましたが、
必ずしもそういう人ばかりではありません。
悪人とか善人とかいうのは極端ですけれど、
そういうのは構造的な流れの問題であり、
それを引き起こして、表に出てきた本人にも選択の余地はあったと思いますが、なによりそういう流れを黙認してきた周囲の環境も同じくらい、いやそれ以上の責任があります。
勿論、この世に絶対的な考えなどそうそうありません。私の考えも とある視点からみたらズレているのかもしれません。
だから 私が正しい、あなたが間違っている状態は
きっと相手も同じような状態を持っていたら、衝突が起きる可能性を秘めており、非常に危険な状態でもあると思います。
もし相手が中立を保っていたとしても一方的な攻撃では、弱肉強食 状態になります。
非常に難しいです。
これが不均衡の危ないところの一つだと思っています。
解決法があるとすれば、互いに中立を持って
歩みよることかなあと。
私は大人が偉くて子供だけが未熟で学ぶべきだというのはどうかなあと思いますし、
先輩が偉くて、後輩がペコペコ頭を下げる状態に疑問を感じます。
大人と子供の違い?
はっきり言って
先入観があるかないかで
それによる判断ができるかどうか。
周囲からの影響を受けやすいか否か
導火線が長いか短いか
生殖機能が発達しているか否かで
それだったら、対等な関係でいいのでは?と思います。
対等な関係、互いに互いのことを学び、
互いのことを尊重する。
そういうふうになったらいいなあと
少なくともそういう余裕を持てるように、
周りの人が支援できるようになったらいいなと。誰かの子供じゃあなくて、みんなの子供だって。大人じゃあなくて、ある意味みんな子供だって。
悪人(ホントはそんなもの言葉のトリックにすぎなく、存在しない)と呼ばれる人が出てくるのは、その人自身の選択の余地もあるとは思うが、
社会全体の責任または、構造上の責任もかなり大きく、一個人に押し付けても、本質的な流れを考えなければ、また同じようなことが起こる可能性は充分にある。
私と同じような環境 同じような状況に置かれている人がいたら、おそらく、私とほとんど同じような振る舞いをするでしょう。
それと同じように。
ここで、スピーチしてもあんまし変わらないのは分かっています(笑)
申し訳ないです本当に、こんな長い文章で
思っていることをここで発散させてしまって、
人に書く文章だと、もっと丁寧に わかりやすく書かないとなあと思います。
最近は軽く走っているので、気分が楽です。
あと勉強は少しずつ手をつけています。
少しでもできることを少しずつやっていきたいと思います。
一気に全部は難しいですよね。
ウリエルさんも皆さんも健康にお気をつけて
元気でいてくれるといいなあと思います。