人は二人の主人をもつことは出来ない。富と神に同時に仕えることは出来ない。

そう教えたのはイエス・キリストです。

私自身、このことは身をもって体験したこのなので、よく分かります。
本当の幸いにも書きましたが、私たちの現実世界での豊かさ、 つまりお金や成功と、魂の成長という目的の間には、相入れないのではないか?
と思われるような要素があります。


■神と富
神を重んじれば豊かさは失われるのか?

私たちが人間としての富や成功よりも、魂の目的や成功を優先しよう と思いそれを実践しようとしたとき、私たちは貧しくなるしか道は ないのでしょうか?
今ある財産を ぽーっん とどこかに寄付して、マザーテレサのように スラムに入って人生を奉仕に捧(ささ)げてみたらよいのでしょうか?

まあ、ある意味それだけ思い切ったことが出来るのであればそれは それでありかな~ なんて思います♪

愛のない成功よりも、愛のある失敗の方が価値があるというような ことを言ったのは、まさにマザーテレサでしたが、動機が愛であったなら 何をしても、失敗しても、それは魂にとって成功であると言えると思います。
ただ、それをした場合、もし、自分自身に愛も覚悟も足りなかったことが 後から分かった場合、とても大変なことになると思います。

私たちは身の丈に合った洋服を着る訳ですが、私たちの人生というのも 普通は身の丈にあった、プランに組まれているものです。

身の丈、つまり自分の愛のスケールに合わない奉仕は身を滅ぼします。

自分の愛の大きさに合わせて無理なく奉仕の幅を広げていくような やり方を私はお勧めします♪ ここでは 清貧 を例に考えて見ましょう♪


■清貧と豊かさ
清貧とは私欲をすてて正しい行いのために貧しく生活が質素であること。
宮沢賢治の雨にも負けずのデクノボーのようでもあります。

清貧を旨として生きているような父親と家族がいたとします。
その清貧という生き方をする動機が、愛以外のものであった場合どうでしょう?

例えば宗教的な思想のようなものに基づいていて、清貧に生きれば 天国に行けるというような動機の場合。

例えば多額の借金のために貧しい暮らしを余儀なくされ、それを取り繕う 方便としての清貧であった場合。

例えば清貧に暮らす家族のだれかがやせ我慢をしていたり、とても惨めな 思いをしていたとしたら。

これはとても 本当の幸い とよべるものではありませんよね。

成功して沢山の富を得ているような人でも、私欲をすてて正しい行いのために貧しい人と分かち合い、 自らも質素な生活であるならば、それは清貧であると言えます。

愛と分かち合う心があれば、清貧のために豊かさを否定する必要はまったくないのです。

私自身は、人間だれしもが最後は清貧に生きるべきだと考えています。
ただそこに至るまでには愛を成長させるという長い道のりがあるのです。
無理に教えや理想に従い貧しくふるまうのではなく、自己の愛や魂が成長し、心の浄化にともない、不要な物が身の周りから消えていき、 結果として自然と清貧とよばれるような生き方になるのが望ましいのです♪

この世界で私たちを縛るものから自由になり、本当の幸いを手に入れてください♪



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